寺伝によると神亀三年(726年)行基菩薩が行脚の途上この地に錫を留め、自らの手で千手千眼観世音菩薩像を掘り上げて本尊として祀り、清水寺を開創したと云います。清水寺の建立を支援した一般の人の名は伝わっていませんが、恐らく志太群衛の大領(長官)や少領(次官)も建立の中心となったと考えられます。
清水寺の歴史
History
由緒縁起
清水寺は藤枝地区では最も早い時期に開創された名刹であり、開創の由来だけでなく、一級の古文書や宝物、境内の広さからも鬼岩寺と並び称され、昔から志太地区の人々に「清水さん(きよみずさん)」と呼ばれ親しまれてきました。
当山には奈良時代に書かれた「縁生論」一巻(県指定文化財)が今でも大切に保管されています。称徳天皇が、全国由緒ある寺院に納経した一切経の一部です。奥書きに「神護景雲二年(785年)五月十三日」とあり、別名『景雲経』とも呼ばれ、『五月一日経』とともに、太平の勅願経の双璧と称されて、全長四七九センチもあり、黄はだで染めた料紙に写経体で墨書きされています。
この『縁生論』が清水寺に残されていること自体、地方では珍しくかつ、中央にも知られていた由緒ある寺院であった証明でもあります。
紙本墨書縁生論
巻子装 一巻 奈良時代
本紙(黄穀紙9紙)縦27.9cm 全長478.8mm 界高23.3cm 界幅2.4cm
巻末に識語13行(152文字) 首題「縁生論」尾題「縁生論」
表紙・紐・朱漆撥型軸首は後補(昭和54年修理)
縁生論奥書
縁生論巻首
清水寺は真言宗に属し、高野山無量寿院末となりました。その後発展し、戦国時代ころまでは、現在地より約二キロ西北の元清水の山頂(経塚山)にあって、十二院の諸堂を有し、塔平と呼ばれている所には五重塔も建つ大伽藍を誇り、多くの人々に信仰され、正暦二年(991年)花山法皇は戒師佛眼上人を伴って東国巡幸をした際、清水寺に立ち寄り、勅願書に定め、千石を賜ったといいます。
建久元年(1190年)、源頼朝は、武運長久天下太平を願う祈願所寺院としました。
室町時代に入ってからは、今川家の帰依を受け、今川義元からは新たに二町歩の土地の寄進を受け、さらに義元の子氏真からは、一五石の寺領安堵を受けています。
また氏真は清水寺門前で年二回自由に商売することができるよう楽市楽座の許可状も与え、清水寺を保護しました。
永禄三年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで没すると、駿河攻略をねらっていた武田信玄は、永禄十二年(1569年)冬大軍を率いて駿河に侵攻し、駿府城、花沢城、田中城等を次々に攻略。この戦いの時、清水寺にも兵火に遭い、さしもの大伽藍も悉く焼失。
この時、本尊と『縁生論』は難を逃れましたが、多くの仏像や寺宝が焼失してしまいました。
信玄は駿河を平定すると直ちに寺領安堵状を清水寺に発給しています。
今まであった境内を現在地に移し、翌永禄十三年(元亀元年1570年)には堂宇を新築しました。
慶長年間には観音堂が建立され、正面には慶長十九年(1614年)の銘が刻まれている鰐口が下がっています。駿河三十三カ所観音霊場の第一番札所として多くの参詣者を集めました。
本尊の千手観音様は秘仏で拝顔は檀家であっても許されなく、霊験あらたかな観音様として毎年二月の第三日曜日をはさんで前後三日間縁日が開かれ、宗派に関係なく老若男女、大人、子供のお参りの人々で埋め尽くされ、境内では厄除まんじゅう、観音力(酒)、笹だるま等が参詣者に数多く求められ、参道では数多くの露店の店が軒を並べ賑わっています。
この縁日は浜松の鴨江観音、鈴川の毘沙門天と並んで県下三大縁日の一つとして、毎年、厄除けを願う人々で大いに賑わいます。特に結婚前の女性は、十九の厄を払わねばならないといって昔はよくお参りをしたものです。
清水寺には、寺宝として縁生論、鰐口、懸仏その他戦国時代から江戸時代にかけての古文書や朱印状等が多く残されています。
多くの人々の篤い信仰に支えられ、伽藍も整備され、登り口には、弘法大師が歩いた平安の道があり途中には弘法の井戸(姿見の井戸)もあり、道中には音羽の滝不動明王が、仁王門には阿吽の仁王像がにらみをきかせ、頭上には松平定信の「音羽山」の扁額がかけられています。
境内には再建された立派な大師堂があり、毎月二十一日には参詣者も多く、また、毎月十七日には観音様へのお参りも多く、その他には、本堂、観音堂、事務堂、鐘楼堂、地蔵堂(八角堂)、大黒天、山王大権現堂、烏枢沙摩明王堂等をつらねています。
昔の威観は見られませんが、清水寺は郷土の誇る名刹であることに変わりはありません。
鰐口
平安の道
山門の扁額「音羽山」
金銅千手観音懸仏
境内の山王権現に御神体として祀られていたもので、鋳銅製の本尊・光背・鏡板からなる懸仏です。
本尊の千手観音像で、定印を結んだ左右の第一手と合掌印を結んだ第二手を共鋳して接ぎ、さらに別鋳された左右五本ずつの脇手が本体に取り付けられています。
脇手には、本来持物があったとみられますが、現存するものは左側の棒状のもの(宝弓か?)のみとなっています。
頭部と腰部にほぞが造り出され、光背と鏡板を貫いて釘のよって固定されています。
光背にみられる銘文は、大井川流域を襲った災害からの復興を祈る願文ではないかと考えられます。
また、劫長(弘長)二年(1262年)の年号がみられ、仏像の作風に鎌倉時代の特徴がうかがえることは、この年号とも合致するものです。
清水寺信仰の歴史を伝える懸仏をして貴重な資料であるとともに、工芸品として技術的価値の点でも重要なものです。
千手観音懸仏
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